外国為替市場の歴史
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為替市場は何世紀も前から存在し古くはメソポタミア時代にまで遡ります。
為替市場の歴史から通貨ペア誕生の歴史、テクノロジーまでを簡単におさらいしておきましょう。
紀元前6000年~物々交換システムと金貨の導入
紀元前6000年、メソポタミア族は人類最古の取引方法である物々交換システムを導入しました。
メソポタミア族によって導入された物々交換は、その後フェニキア人によって採用されました。
フェニキア人は、海を越えて他の都市にいるさまざまな人々と物々交換をしました。
さらにバビロニア人は、商品を食料、お茶、武器、香辛料と交換する既存の物々交換システムを作りました。
物々交換システムは、紀元前6世紀頃、人々の交換手段として金貨が採用されたことで大きな変化が見られました。
この金貨の仕組みは現在の貨幣の基礎を形成します。
古代エジプト
紀元前4千年紀、古代エジプトでは金の指輪が使用されています。
金の指輪は、アクセサリーと通貨の二種類の目的で使用されていました。
ローマ帝国
貨幣と呼べるシステムが確立したのが、ローマ帝国でした。
政府による通貨貿易の独占が公式化されたのも初めてのことです。
これは、世界中の中央銀行が金融政策についての会合を行う今日と同じ構造です。
通貨市場は西暦4世紀までビザンチン帝国によって支配されていました。
ローマ帝国が5世紀に衰退したとき、「ベザント」が流通し、国際貿易通貨の主流になりました。

地中海
13世紀には、地中海の大国としてフィレンツェ共和国が台頭しました。
1252年から1533年にかけて、フィレンツェはフローリン金貨を鋳造。
フローリンの金含有量は72粒と固定されており、短期間でヨーロッパエリアにおける国際貿易の標準通貨となります。

618年~紙幣の歴史
紙幣は唐王朝(618AD – 907AD)の下、中国で発明されました。
宋王朝(AD 960–1279)の時代では「Jiaozi」と呼ばれる約束手形が広範囲で使用されていました。

商人が大量のコインを運ぶことは、その重量と盗難のリスクのため大変不便だったため、紙幣は11世紀に非常に人気がありました。
ヴェネツィアの探検家であるマルコポーロは、アジアへの訪問中に紙幣の存在に出会い、自身の著書を通じてヨーロッパに紹介しました。
しかし、ヨーロッパで最初の紙幣が使われたのは、マルコポーロが紹介してから数世紀経った、1661年、スウェーデンで発行されました。
スウェーデン・ストックホルム銀行は、kreditivsedlarと呼ばれる譲渡預金証明書として紙幣を発行しました。

紙幣は、硬貨よりも低コスト且つ迅速に製造できるため、ヨーロッパ諸国の間で人気が広がりました。
1875年~金本位制の通貨制度
過去、多くの文明で商品やサービスの取引に金貨を使用してきました。
しかし、金貨はどうしてもかさばり、輸送が困難であったため、使用するのは大変でした。
1800年代から各国でゴールドスタンダードを採用し始めます。
金本位制というシステムで政府が管理、発行した紙幣と金の価値保存と引き換えることになります。
つまり国は、準備金として保管されている金と同程度の自国通貨しか造ることができませんでした。
米国はアンドリュー・ジャクソンの大統領の元、議会で1オンスの金が20.67ドルに修正されており、この法の元での金本位制を採用しました。
これに続き、西ヨーロッパ諸国とロシアは1897年に金本位制を採用しています。
しかし、第一次世界大戦後、各国は経費を賄うために準備金以上のお金(紙幣)を印刷する必要があり、そのことが金本位制の終焉につながっていきました。
20世紀には、多くの国が金を保持し続けているものの、ほとんどの国が通貨制度としての金本位制を放棄しています。
1913年~連邦準備制度
1913年12月23日、米国議会は国内の金と通貨の価値を安定させるための連邦準備制度を設立しました。
連邦準備法は、金融政策を監督する中央銀行を導入することにより、経済の安定を確立することを目的としていました。
1913年の連邦準備法は、ウッドロウウィルソン大統領によって法制化され、連邦準備銀行が経済の安定を確保するためにお金を印刷する権利を受け取ります。
1922年~2つの世界大戦
当時金本位制は、米国、フランス、英国にとってとても重要で新しいシステムでした。
市場が大恐慌に見舞われた際、投資家たちは通貨と商品を求めます。
金価格は上昇し、人々はドルを金と交換するようになります。
しかし銀行が破綻し始め、事態は最悪の方向に向かいます。
それが金融機関への信頼失墜です。
人々は直接金を蓄え始めるようになります。
ニューヨーク連邦準備銀行が通貨を金に変換するという約束が守れなくなった時、ルーズベルト大統領は銀行を閉鎖しました。
1933年3月13日には営業を再開しています。
このような背景から1934年1月30日以降、金の個人所有はライセンス許可制となり、金の準備法に基づく場合を除いて原則禁止となります。
この値上げがきっかけとなり、世界中の金鉱業界は生産を拡大するようになります。
1945年~ブレトンウッズ協定 / IMFの誕生
1945年は通貨市場史の中で画期的な年となりました。
ブレインウッズ競艇は第二次世界大戦後半の1944年7月、アメリカ合衆国のニューハンプシャー州ブレトン・ウッズで開かれた連合国通貨金融会議(45ヵ国参加)で締結。
アメリカ合衆国ドルを基軸とした固定為替相場制で、「金1オンス35USドル」のレートで各国の通貨交換比率を保持することによって自由貿易の発展と世界経済の安定を目的とした仕組みでした。
この協定は1971年のニクソンショックまで続きました。
戦後西側諸国の経済の復興を支えたと言われています。
IMF(国際通貨基金)
International Monetary Fundは、国際連合の専門機関の一つ。
本部はアメリカ合衆国の首都ワシントンD.Cにあります。
加盟国は189か国(2018年時点)
1971年~ニクソンショック
西ドイツは1971年5月にブレトンウッズ体制から撤退。
スイスとフランスは1971年8月に撤退しました。
その間もドル建てでの金価格は上昇を続けます。
1971年8月15日(日本時間(昭和46年)8月16日)にリチャード・ニクソン大統領が、1オンス=35ドルによる米ドル紙幣と金の兌換の停止を宣言。
これは世界経済の枠組みが大きく変わった瞬間でした。
この宣言によりすべての通貨は金との関連性失います。
歴史上初めて、通貨同士が双方からの観点で評価することができるようになります。
この瞬間から通貨ペアが誕生しトレーダーは直接通貨同士を交換。
現代に続く外国為替市場が誕生となりました。
ニクソンショック時の日本の様子
- 8月17日~佐藤首相が閣議後に大蔵省幹部と協議し引き続き市場を開放することが決定。
- 8月21日~佐藤首相に柏木顧問より報告が入り、「どうも円の切り上げはやむを得ないか」と記載。
- 8月22日~大蔵省は極秘の緊急幹部会を開き、変動相場制を検討したが保留。
- 8月27日~日銀のドル買いが1日で12億ドルに到達→日銀はショック後からこの日までに約40億ドル買い入れ。
- 8月28日~1ドル360円の固定相場制から変動相場制に移行→初日は約5%上昇。
1971年~スミソニアン協定
スミソニアン協定は、1971年に米国、英国、カナダ、ベルギー、フランス、西ドイツ、イタリア、日本、オランダ、スウェーデンの10か国間で成立した一時的な協定でした。
ブレトンウッズ協定に基づいて確立されていた固定相場制の調整と、ドルの新しい基準を設計することでした。
スミソニアン協定はは短くわずか15か月間となりました。
1972年には欧州共同体が米ドルへの依存から脱却しようと、西ドイツ、フランス、イタリア、オランダ、ベルギー、ルクセンブルグでヨーロッパ共同フロートを設立。
1973年~変動相場制へ
変動相場制とは、国家同士での相対的な経済力や金利を反映し、通貨価格が変動することを意味します。
この時期に起こった変動相場制への変化に加え、テクノロジーの進歩が外国為替市場の歴史に大きな変化をもたらしました。
1976年~ジャマイカ合意
1976年、ジャマイカのキングストンで開催されたジャマイカ協定は、変動相場制への移行を正式に決定します。
IMFの理事会は、1976年1月8日にジャマイカのキングストンで変動相場制を承認、正式に発効するまでに2年かかりました。
1979年~欧州通貨制度
ブレトンウッズ協定崩壊のもう一つの影響は、欧州通貨制度の創設でした。
1979年、欧州経済共同体は、メンバー間のより緊密な金融政策の結びつきを強化するために、欧州通貨制度と呼ばれる欧州共同体固定為替相場制のシステムを導入。
1985年~プラザ合意
1980年代初頭、当時の連邦準備制度理事会のポール・ボルカー議長はスタグフレーションを抑えるため金利を引き上げ、米ドルを大幅に上昇させます。
その結果、米国は、輸出業者が大きな打撃を受け、GDPは−3.5%を記録。
アメリカの工場のほとんどが、海外の競合他社と競争できなかったため、操業を停止し始めます。
この問題の解決のため、G5(米国、英国、西ドイツ、フランス、日本)は、1985年にニューヨーク市のプラザホテルで秘密会議を開催。
各国は「プラザ合意」の結論を出し、主要通貨が為替市場に介入し、米ドルに対して上昇させることを決定。
世界経済に影響を及ぼす歴史的な合意となりましたが、内容は事前に実務者間協議において決められており、この会議自体は20分程で合意に至る形式的なものでした。
プラザ合意により、ドルに対する円とドイツマルクの価値が劇的に増加。
1年後にはドルの価値はほぼ半減、150円台で取引されるようになりました。
プラザ合意の影響で日本は10年近くの低成長とデフレに直面、回復を図ろうと米ドルへの依存を減らし、東アジアとの貿易を増やしていきます
1999年~ユーロの誕生
1999年1月1日、欧州12か国が経済通貨同盟を結び、これら12か国の通貨はユーロと呼ばれる単一の通貨に統合されることになりました。
2002年2月28日以降に、欧州連合加盟国の旧自国通貨は法定通貨ではなくなりました。
外国為替市場におけるテクノロジーの変化
1980年代
この頃、外国為替取引は電話で行われていました。
企業や個人は、外国為替ディーラー(通常は銀行)に電話し、取引したい通貨ペアのリアルタイムの見積もりを要求します。
ただし取引の証書は物理的な書類を通して行われていました。
1980年代後半からは、外国為替取引も大きく変わり1987年にディーラー間の取引を記録する最初のシステムをロイターが導入。
このシステムではライブ価格で見積もりを画面表示させることができます。
1990年代
この頃からインターネットの登場により、通貨市場はより高速で取引が行われるようになります。
多くのオンライン外国為替取引プラットフォームと電子決済が登場し、電話での事務処理が衰退していきます。
1992年、ロイターはトムソンロイターマッチングと呼ばれる最初の自動電子仲介システムを立ち上げました。
1999年、米国のドットコムバブルが勢いを増すにつれて、多くの銀行が電子取引プラットフォームを提供し始めます。
物々交換ベースの経済から始まり、現在デジタル決済を軸とする市場に進化しました。
人工知能、5Gテクノロジー、などは特にこの分野でのさらなる発展に寄与することになるでしょう。